プレミアム vsラグジュアリー

「プレミアム」はそれ自身に「おまけ」という意味があるように「普及品に付加価値をつけたから価格を高くさせてね」というメッセージであることが多い。近所のスーパー(GMS)で販売している「プレミアムコーヒー」を「高級品」という意味でのプレミアムだと思う人はいないだろう(本当に美味しいコーヒーは自家焙煎に決まっている)。

 

価格性能比で商品を語ることは、お買い得感以外にたいしたセールスポイントがないということに他ならない。「ガソリンが20リッターあるから御殿場まで足を延ばそう」というふざけたヤツと友達になりたいとは思わないが、プレミアムという言葉のマーケティング上の使い方はこれに近いのが実態だ。「プレミアム」が大量生産されている時点でもはや何かがおかしい。

 

我々の身の回りにある「プレミアム」を謳う商品の多くにはある種の貧乏くささが漂う。価格に対するスタンスという意味において「プレミアム(=貧乏くさい)」の反対語が「ラグジュアリー(=贅沢)」になる。ラグジュアリーの最大の特徴は「価格に根拠がない、あるいは値段をつけるのが難しい」というところにある。フェラーリはコストを積み上げただけではあの金額にはならない。「不特定多数の方に販売したいわけではない」という、価格による強烈なメッセージだと受け止めるのが正解だ。ただ、従来のラグジュアリーの最大の弱点は「高価格方向にしかブレていない」という点にあった。これは主に物質的希少性を根拠としている。

 

今までのラグジュアリーが物質的希少性に起因していたとするなら、ポスト資本主義社会におけるラグジュアリーは「機会に対する希少性」になるだろう。その場に居合わせないと遭遇できない自然現象や偶然の出会いなどがこれに該当する。「縁側で、中秋の名月を鑑賞しつつ団子を食う」は、物質的希少性もなければ目玉が飛び出るような価格がついているわけではないにもかかわらず、天候さえよければかなり贅沢だ。AKB48の「握手券」なども、機会に対する希少性という意味ではとても贅沢な企画だ。

 

機会に対する希少性の特徴とその健全性は、価値のクラス分け、すなわち比較が難しいという点にある(中秋の名月と握手券を比較することになんの意味もない)。それに比べ「いつかはクラウン(さすがのトヨタもこのセリフは封印したようだ)」にはクラウンこそが頂点であり、そこに到達すべく着実にクラスを上げて行きましょう、という比較優位を前提にした貧乏くさい価値観が鮮明だ。ファッション業界にもディスクリートラグジュアリー(discreet luxury :主張しない、控えめなラグジュアリー)を標榜する妙なブランドがあるらしいが、この「他人からの視線をとても気にした」言葉を使った時点でラグジュアリーを語る資格はないように思う。

 

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